Escape from tetora pod

Time goes slowly ulala,ulala...

「Sprout」について、あるいは三年前の自分の小説を読み直すことについて

Posted on September 19, 2022

二十五を過ぎたら死ぬしかない

三連休スプラ3とRoR2しかやってないことに気づいたので、少しでも有意義だったことにするかと思ってブログを書いている。スプラ3はプロモデラーとガロンとN-ZAP85を使ってる。ヒッセンは難しい。なぜならスペシャルで実力が要求されるので。

まあそれはさておき、先日誕生日だったので三年前に出した自分の同人誌を読んだ。そういうつもりで書いたものだったので。書いた同人誌について簡単に説明しておくと、響けユーフォニアムのいわゆる「南中カルテット」の面々が25歳になったときの話を五編まとめたものになる。今もBoothで売っているし、pixivでも一部読める。当時のことはブログに書いてある

なんで三年前の作品を読んでいるのかというと、そういうふうに自分が昔決めたので。あとがきにもそう書いてある1 。三年前から、三年後の誕生日に向けて書いていたのだと思う。三年後に向けて書いたのはおそらく大学院に進学を決めていて、そこでどうにもならなかったときのための保険、慰め、みたいな言い方を周りにはしてた気がするし、自分でもそう思っていたと思う。

圧が強い

圧が強い

しかし読み返してみると、そこまでわかりやすく慰めのようなものは色はなかった。よく考えれば、三年後の自分を慰めるのは不可能なので当たり前なのだが、当時の自分はこれを慰めだと思っていたのが面白い。慰められるほどの傷は手元にないので、慰めになっているかどうかはわからないが。そういうことよりも、ただ当時の自分が書きたいものを書いて、それがたまたま三年後の自分の年齢と同じ年齢の人間を扱ったものだった、というのが正解なのだろう。

では読む意味がなかったかというと、そうでもなかったと思う。彼女たちは作品の中では高校生で、私の小説の中では25歳だった。その間にある短くはない時間を、私は書かないでいた。そうした意味を、改めて時間をおいた今読み直すことで再確認できたかなと思う。私と三年前の私には三年という時が当然横たわっていて、その時間を思うように、彼女たちの時間を思うことができたのが良かった。

当時の私は(小説を書く上では致命的な気もするが)物語を書く上で描写が必要である、ということをわかっていなくて、だから自分の考えたことや気づいたことで文章が埋まりがちな傾向にあるのだけど、それがそこまで読んでいておかしくない、というのが不思議なことだった。分かっていること、文章を書く上でわかったこと、文章を書く上で書けないとわかったことのバランスが取れていて、真面目に書いていたことがわかった。

三年前の自分が何を考えていたのかを理解するのは難しいので、どうしても出力されたものを目にするしかない。自作を読むことはなんとなくためらわれたので、メモなどを読むしかなかった。そういうメモには、自分がわかったことしか書いていないものだから、どうしても確信的な話しか書いてなくて、思った以上に幼い話が出てくるのかなと思っていたけれど、小説自体は適切な距離が常にあったと思う。自分の目線でわかったことだけが人生ではないということをわきまえて書いていてる感じがあって、なかなか当時の自分も愚かではないのだなと感じたりした。

まあいろいろ言いたいことはあるけど。まず誤字が多すぎる。通しで読めや。あと文章が今よりもより細切れになりがちだった。この辺は多少成長している気がする。気がするだけだが。

今でもHAUGAは一番聞いている。Stamenは一番好きな曲だ。そういうことを、当時よりもより落ち着いた温度で言えるようになったのは、当時の自分の行動のおかげだと思うし、そういう点で過去の自分には感謝している。大切なものを本当に大切に扱うのはそれなりに大変なことなのだと、この歳になってわかる。そういう機会を与えられたことを、三年後の京都から嬉しく思った。

いいね。

いいね。

膨らんだポケットに穴を開けてくれ


  1. あとがき読むのはきつかった… ↩︎